南無阿弥陀仏が 私の救われるしるしであり 証である
Our saying, “Namo Amida Butsu” is surely proof we will be saved.
今年の法語カレンダーは、イラストは画家の保田温良(やすだ はるよし)さん、法語はさまざまな念仏者の言葉が引かれています。3月は浄土真宗本願寺派の僧侶、梯 實圓(かけはし じつえん)師の言葉です。
梯師は昭和2年生まれで平成26年に86歳で亡くなられています。学僧として最高位の勧学を務め、また浄土真宗本願寺派の僧侶養成機関である行信教校の名誉校長も務められました。
<解説>
南無阿弥陀仏のお念仏が、私が阿弥陀仏に救われていく「しるし」であり「あかし」であるという今月の言葉です。「しるし」や「あかし」が強調される裏側には「〜〜ではなく」という言葉が隠れているように思われます。いったい何が隠れているのでしょうか。
<私の味わい>
浄土真宗だけでなく仏教各宗派に共通するのは、「さとりを得る」という目標です。その目的に達するために必要なのは「教行証」だと言われます。
つまりお釈迦さまが説かれた「教え」があり、「行(修行)」があり、そして「証(さとり)」がある、という大まかな流れは各宗派に共通しています。
親鸞聖人の主著は、難しそうな名前ですが『顕浄土真実教行証文類(けん じょうど しんじつ きょうぎょうしょう もんるい)』といいます。「浄土の真実の教えを顕かにするための、教えと行と証に関する文章を集めたもの」という意味になります。
ただ親鸞聖人は、長い仏教の歴史の中で極めて特異な捉え方をされました。他の宗派で大切にされている「行」を、自分の行ではなく阿弥陀仏の行と捉えたのです。
凡夫である自分には、さとりに至るための行を完遂することなどできない。しかし阿弥陀仏はそれをお見通しで、本来私たちが為さねばならない行を、先んじて肩代わりして完遂してくださっている。
なので私たちがすべきことは、その阿弥陀仏を信ずること。いや、やはりどうしても煩悩が邪魔をする私たちなので、その信じるということすらできはしない。であれば、この信も阿弥陀仏から恵まれたものである。
という捉え方になるので、冒頭でお話しした「隠れている何か」は「行」ということになります。カレンダーの言葉に書き加えると「南無阿弥陀仏は行ではなく、私の救われるしるしであり、証である」という形になります。
ちなみに、同じ浄土系でも浄土宗では念仏を「行」と捉えるようです。ですので浄土宗のお寺に行くと、小さな木魚がたくさん置いてあります。法要の際、僧侶だけでなくお参りのかたも一緒に木魚を叩きながらお念仏を称えるのです。また「24時間不断念仏会」という法要をしているお寺もあるようです。
前述の親鸞聖人の主著に話を戻しますが、一般には略されて『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』と呼ばれます。正式な題名は『顕浄土真実教行証文類』ですから、略すとしたら「教行証」のはずで、信はどこにも見当たりません。いったいどこから紛れ込んだのでしょうか?
私たち凡夫には「教」を完全に理解することはできず、「行」も完遂することはできません。ですから当然「証」を得ることもできません。
ですが「信」は、阿弥陀仏から恵まれたものとはいえ、私たちの手の中にあります。その「信」を依りどころとし、頼りとし、しるしとし、証とするのが念仏者の生き方であって、だからこそ「信」の一字が略された題名に入れられているのではないでしょうか。