人が何よりも執着せんとするものが自己である

It is the self among all things that we most adhere to.

 

今年の法語カレンダーは、僧侶であるなしに限らず広く念仏者の言葉が引かれています。


4月は、恥ずかしながら初めてお名前をお聞きしたのですが、金沢出身の仏教思想家で詩人の毎田周一(まいだ しゅういち)さんの言葉です。

 

ご本人のことは存じ上げませんでしたが、大谷派僧侶の暁烏敏と哲学者の西田幾多郎に師事していたとのことです。

 

 

<解説>
一般には「執着」を「しゅうちゃく」と読みますが、仏教では「しゅうじゃく」と読みます。「声明」を「せいめい/しょうみょう」と読んだり「自然」を「しぜん/じねん」と読んだり、仏教用語は一般と読み方が変わったり、意味すら変わってしまう場合もあります。
執着は私たちが普段使う場合と、それほど大きく意味は変わりません。

 

 

<私のあじわい>
仏教とはある意味、簡単な教えです。
人は自分の欲求に執着心を持ち、自分の周囲のものに執着心を持ち、自分自身に執着心を持ちます。そして執着心の対象が得られなかったり失われたりすることを恐れ、脅え、うろたえます。

 

ですので、全ての物事に執着心を持たなければ、苦しみも生じなくなるわけです。
なんと簡単なことでしょう、これで悟りを開いたも同然です、おめでとうございます。

 


……とはいきませんね。
喩えれば、投手が投げたボールを野手が取れない所に打ち返しなさいと監督が言ったり、難解な譜面を寸分たがわず演奏しなさいと指揮者が言ったりしても、そうはできないのが人間です。

 

綺麗な奥さんと可愛い子どもがいるのに、ついつい浮気をしてしまうのも人間です。生まれたからには必ず亡くなるのだから死を怖がらなくてもいいと言われても、マスクをしないで咳をしている人に「コロナじゃないのか、あっち行け!」と言ってしまうのも人間です。

 

「わかる」ことと「できる」ことに大きな違いがあるということでしょう。その両者を少しでも近づけていくために、仏教の各宗派にはそれぞれの教えがあり、また修行というものがあるのだと思います。

 

 

さて、話は変わりますが、多くの僧侶がコロナ禍に対して発言をしています。大きな出来事ですし、皆さんが不安に苛まれていますので、何かしら発言をすべきだと思いますが、やはり宗派によっての特徴が現れるのだなぁと感じました。

 

又聞きなのですが、禅のお坊さんが「いまを生きる」ことが大切だとと仰ったそうです。過去にとらわれず、未来を悲観せず、「今」を生きる。少し前から世界中で流行しているマインドフルネスも、やはり「今」に集中することが大切だと説いています。

 

まことに禅的だと思いますし、正しいことを仰っていると思います。ただ、私にはできないと思いました。過去や未来や人間関係や自分自身や、あらゆるもに執着し手放すことができない私には、とうていできないことだと思いました。

 

私にできることは、不安に苛まれている人と一緒に不安がってオロオロすることぐらいかなと思います。でも、それもいいのかなと思います。凛々しく「今を生きよ」と仰る禅僧も、一緒になって「困ったね、しんどいね」とオロオロする私も、どちらもいていいのではないかと思います。

 

 

浄土教の有名な絵に「二河白道」というものがあります。炎と水の激流の間に細い道が延びている。向こう岸には阿弥陀如来が「こちらにおいで」と見守っていてくださり、こちら岸には釈迦如来が「安心して渡りなさい」と見守っていてくださる。

両方の如来さまがいてこそ、人はその細い道を渡っていこうと思えるのです。

 

そして、他の宗派と方法は違えど、お念仏もまた最終的には執着を手放すための道です。
阿弥陀仏はそのまま仏さまのお名前、南無は帰依、つまり阿弥陀仏を全面的に信じてお任せをするという意味です。
自分から執着を切り離すのではなく、執着を手放すことができない自分を、丸ごと仏さまに委ねるという道なのです。