念仏とは自己を発見することである
The Nembutsu enables us to discover ourselves.


今年の法語カレンダーは、僧侶であるなしに限らず広く念仏者の言葉が引かれています。

 

10月は真宗大谷派の高名な僧侶である金子大榮 師の言葉です。

金子大榮 師は明治生まれで昭和中期まで活躍し、大谷大学の名誉教授にまでなった方です。

 

 

<解説>
念仏というと「馬の耳に念仏」ということわざもありますが、なんだか有り難いけれど難しいもの、というイメージがあるかと思います。

 

特に声に出して称える念仏は、信心深い年配の方などが繰り返し繰り返し称えるような印象で、なにか呪文のように捉えられているかもしれません。

しかし念仏にもちゃんとした意味があります。

 

南無はインドの古代語であるサンスクリット語の「ナマス(信じる、帰依する)」という言葉に漢字があてはめられたものです。今でもインドの挨拶は「ナマステ」という言葉になりますが、これは「ナマス」に「あなた」を意味する「テー」が付いたもので、ナマステは「あなたを信じます、あなたに帰依します」という信頼を表す言葉になります。

 

続く「阿弥陀」は仏さまのお名前です。これもサンスクリット語では「アーミータ(量りきれない)」という言葉で、この後には「アーユス(いのち)」と「アーブハ(ひかり)」という意味が内包されています。ですので阿弥陀仏の異名で「無量寿仏」や「無量光仏」といったものがあります。

 

最後の「仏」はサンスクリット語で「ブッダ(真理に目覚めた者)」となります。手塚治虫さんのマンガでも『ブッダ』という作品がありますが、実は固有名詞ではなく、真理に目覚めた者は皆ブッダなのです。中国で意訳されると「如来」という言葉になるので、同じ仏さまなのですが阿弥陀仏とか阿弥陀如来というふうに、呼び方に少し揺れが生じます。

 

というわけで「南無阿弥陀仏」の意味は「阿弥陀という名の真理に目覚めた者を信じ帰依をする」という意味になるのですが、なぜその念仏が「自己を発見すること」に繋がるのでしょうか?

 

 

<私のあじわい>
大昔の文字の読み書きもできないような時代の人々であれば、とにかく「ナムアミダブツとお念仏を称えることが大切なのだ」と祖父母、両親、子、孫と口伝えに伝えられ、また親や祖父母が手を合わせて念仏する姿を見て代々伝わっていったのだと思います。

 

私の友人で、全く仏教に興味が無いような人がいるのですが、私が僧侶になったという話をしたら急に「きーみょうむーりょうじゅーにょーらいー」と正信偈の一節を暗誦し始めました。話を聞くと祖母が毎日お仏壇の前でお経のお勤めをしていたそうで、自然と覚えてしまったのだそうです。

 

しかし現在は核家族化だったり、家の中にお仏壇を置くスペースがなかったりと、以前であれば自然と伝わってきたものが継承されなくなってきています。

 

 

少し話がそれますが、以下の画像は毎日広告デザイン賞の一般公募・広告主課題の部で、「イオンの葬式」という課題に対し学生賞を受賞した作品です。

 

※以下横線を引いている部分は、当初私が思い違いをして書いた文章です。イオンそのものは賞の選考に関わらず、ポスターとして実際に使用されているわけでもないとご指摘をいただきました。充分な下調べをせずに記載してしまったことをお詫びいたします。


少し話がそれますが、大手スーパーのイオンの葬祭部門で、位牌が肉や魚のラップのような包装をされているポスターが作られました。


このデザインに対し、「葬儀や仏事がそれだけ商業的な扱いを受けているということで、その流れに乗っている僧侶や葬儀社も悪い」といった意見も見られましたが、僧侶はともかく一般の方にもかなり不評を買ったようで、その点に少しホッとしました。

 

私個人の思いとしては、東日本大震災のちょうど1ヶ月後、福島県の避難所を訪れていた時のことを思い出します。

自宅があったあたりのガレキの中から、ボロボロになった先祖の位牌を見つけ出して、「よかった、よかった」と涙を流されていた被災者の方。その方がこのポスターを見たらどう思われるだろうか…と感じました。

 


話を戻しますと、現代の私たちに意味の分からない言葉をただ有り難がって称えなさいといっても、それはなかなか難しいことだと思います。ちゃんと意味を知った上で、自分の意志で称えることが必要なのだと感じます。

 

なぜ念仏が大切なのか、なぜ阿弥陀仏に帰依をしなければならないのか。
そこにはまず、仏教のひとつの人間観で「凡夫」というものがあります。自らの修行によって悟りを開く能力の無い者、という意味です。

 

親鸞聖人は自らを「罪悪深重の凡夫」とまで言われました。仏さまの教えにも願いにも、なにひとつ応えることのできない私、という自覚です。こんな自分は地獄しか行き場がないとさえ仰っています。


これが今月の言葉の「自己を発見すること」に繋がるのではないでしょうか。何の忖度も幻想もなく徹底的に自己を見つめると、そこに全てを否定されるような救われがたい自分がいる。

 

しかし阿弥陀という仏は、私たちが罪悪深重の凡夫であることを承知の上で、その私たちを救うために誓願を打ち立てたのです。凡夫のあなたのままで生きていけば良い、凡夫のあなたのままで死んでいけば良い、と全てを肯定してくださっているのです。

 

絶対的な否定と絶対的な肯定が、自分の中に同時に存在している。それが浄土真宗という教えの、ひとつの到達点であると考えています。