私を生かしておる力というものに帰っていく歩み それが仏道

The Buddhist path is the journey that guides me back to the power that enables me to live.

今年の法語カレンダーは、イラストは片岡鶴太郎さん、法語はさまざまな念仏者の言葉が引かれています。1月は松野尾潮音さんの言葉です。

 

 

1月の法語は特に難しい言葉はありませんが、スッと理解がしにくいものでもあると感じます。

 

まず最初の「私」は、文字通り自分自身のことでしょう。山あり谷ありの人生を、喜怒哀楽を抱えながら歩を進めています。快調な時もよろめく時もあるでしょうが、自分の足で歩んでいくしかありません。

 

しかし次の「生かしておる力」が繋がると、「私が生きている」のではなく、何らかの力によって生かされているという視点に変わっていきます。大病などをすると、それまでとは世界の見え方が変わってきて、まさに「生かされている自分であった」と気づくかたが少なくありません。

 

ただ、「私を生かしておる力」に「気付く」や「目が開く」と書かれていればわかりやすいのですが、「帰っていく歩み」となるとピンときにくくなります。

ここでの「帰る」は、外出先から自宅に帰るような場所の移動を指すのではなく、いわゆる「帰依」という意味で使われているのではないでしょうか。

 

「帰依」は「神や仏を心から信じ、敬い、頼りとする」という意味の言葉です。自分の力で生きているんだという思いから、「ああ、自分の力だけでは及ばない無限の縁に生かされていたんだなぁ」と気づき、思いの転換が起こります。

すると以前の自分の生き方が、独り善がりで危なっかしいもののように感じられ、とてもその生き方には戻れず、新しい道を歩み出すことになります。

 

その新しい道こそが「仏道」なのです。今では「仏教」といいますが、明治以前は「仏道」や「仏法」と呼びました。それは自分が歩む道であったり、自分が頭を垂れるこの世の法則と受け止められていたからでしょう。

 

 

先日、年が明けて最初のご葬儀がありました。喪主さんも葬儀社さんも私の知人で、誰に頼もうかと相談した時に私の名前が出てきたのだそうです。

 

いろいろと故人さまの人となりを伺うと、若い時は陸上選手だったせいか、マラソンや駅伝などをとても好んで見ていたのだそうです。お亡くなりになったのは箱根駅伝の往路が終わった1月2日の深夜でした。

 

葬儀で法話をさせていただきましたが、そこで「往相回向・還相回向」という浄土真宗の言葉に触れました。

自分自身の力など高が知れている、自分で生きているのではなく生かされているのであったと気づき、阿弥陀仏に救われて浄土に往くのが往相回向。成仏して浄土に往ったのち、縁ある人々を見守り導くために還ってくるのが還相回向です。

 

ですので参列の皆さまには、「亡きかたは必ず仏さまに救われて、悩み苦しみのない浄土で仏さまになっておられますよ。しかしそこでゆっくりしておらず、まるで駅伝選手のようにこちらの世界に戻ってきて、皆さんおひとりおひとりを見守っていらっしゃるのですよ」とお伝えしました。

 

駅伝は往路がなければ当然復路もありません。仏道も、気づきがなければ歩みを進めることができません。往路と復路、気づきと歩み、どちらも大切なのではないでしょうか。